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チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷 著:塩野七生

書評:フィクション

構成

1475年生まれ、そして、1507年に、わずか、31歳で死亡する、イタリアの軍人にして、政治家、「君主論」を記した、ニコロ・マキャベリが、「理想の君主」とした、チェーザレ・ボルジアの生涯について書かれた歴史小説。様々な地名が出てくるが、冒頭に、当時のイタリアの地図がついていて、各所で参照しながら読むといいだろう。ただし、人物が数多く登場し、〇〇公△△とか、〇〇伯□□などと、人名が複雑な部分もある。ただ、塩野七生氏らしい、読んでいて飽きない文章であり、人名に注意して読めば、混乱することは少ないだろう。

内容

ルネッサンス期のイタリア。ドイツは、神聖ローマ帝国、フランスはフランス王によって統一されていたが、イタリアは、教皇領や、ナポリ王国フィレンツェ共和国など、様々な国家に分裂したままであった。時の法王、アレッサンドロ6世の息子であったチェーザレは、法王の息子という、キリスト教的には異端の存在であった。(何しろ、聖職者は、妻帯しないはずなのだ)そんな彼は、一時期、枢機卿にまで上り詰めるが、その地位を捨て、法王の名の下に、イタリア半島の統一を進めていく。

感想

 チェーザレ・ボルジアは、ニコロ・マキャベリに「理想の君主」と呼ばせたほどの男だが、マキャベリの君主像といえば、「君主は獅子の獰猛さと、狐の狡猾さを 併せ持たなければならない。あるいは、 そのように思わせるよう振舞わなければ ならない。」というような人物。権謀術数とか、マキャベリズムなどと呼ばれ、批判されることもあるが、チェーザレはまさにそんなヤツ。一言で言えば、「ヤバイヤツ」なのだ。かつての宿敵であったフランス王と協力関係を築くが、それは完全に合理性から出たもの。作中様々な「協定」やら「約束」が出てくるが、チェーザレにとって「心から」なんて言葉はないんじゃないか、というぐらい、徹底的に「合理」であり、フランス王や法王を完全に利用して、イタリア統一へと進んでいく。自らの計略を知りすぎた人間、市民から人気の高かった君主などの暗殺も平然と行う。

彼らは、自己の感覚に合わないものは、そして自己が必要としないものは絶対に受け入らない。この自己を絶対視する精神は、完全な自由に通る。宗教からも、倫理道徳からも、彼らは自由である。ただ、究極的にはニヒリズムに通ずるこの精神を、その極限で維持し、しかも、積極的にそれを生きていくためには、強烈な意志の力を持たねばならない。

(本書 P163)

チェーザレの、建築技術総監督として働いた、レオナルド・ダ・ヴィンチと、チェーザレが出会う場面で描かれているこの描写こそ、チェーザレの生き方を象徴する文章ではないかと思う。しかも、ざまざまな国を征服し、権謀術数の限りを尽くしたのが、若干20代というから恐ろしい限りである。フランス病(梅毒)で31年の生涯を終えなければ、歴史はどうなっていただろうか。

*改稿 2016/8/3
 本書は、歴史的事実を基にして書かれてはいるが、あくまでも「歴史小説」である、ということに注意してほしい。塩野七生氏について、よくある批判のうちに、「歴史小説であるのに、図書館などで、歴史書として扱われ、また、そのように読まれている」というものがある。私は、ローマ人の物語や、十字軍物語も、夢中で読んだ人間だったので、初めて、この種の、「塩野七生批判」を読んだときはショックを受けたものだった。(誰でも自分の好きな作家やアーティストが批判されていると、それを否定したくなる気持ちはわかると思う)
 例えば、「ローマ人の物語」では「気候変動」という要素を無視し、為政者の失政がローマ帝国衰退の原因である、とする、また、例えば、ユリウス・カエサルに対する「キャラ萌え」のような要素がある、という批判があるようだ。
(リンクを貼っておきます→

d.hatena.ne.jp
 確かに、この「チェーザレ・ボルジア」でも、そのような、「キャラ萌え」要素はあるだろう。(塩野七生氏のマキャベリ好きは言うまでもない)
 残念ながら、私が舞台となった時代に疎いこともあって、この本に何が欠けているのか、を知るまでには至らなかった。しかし、塩野七生氏は、自らについて、「歴史小説家」と述べている、本書も歴史書、としてみるには正確ではない、という批判も当てはまるだろう、ただ、チェーザレ・ボルジアを主人公とした歴史小説、としてみれば成功作であることは間違いないだろう。
 そんなわけで、この「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」は本日をもって、カテゴリ「書評:歴史」から、「書評:フィクション」に変更します。
 なんどもしつこいけど、小説としては面白いからね!