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変身・断食芸人 著:フランツ・カフカ 訳:山下肇 岩波書店

書評:フィクション

「ある朝、グレゴール・ザムザがなにか胸騒ぎのする夢から覚めると、ベットのなかの自分が一匹のばかでかい毒虫に変ってしまっているのに気がついた」(変身 冒頭)

構成

 冒頭の一文が、あまりにも有名な作品「変身」と、短編「断食芸人」の二作品が収録されている。解説も合わせて、108ページほどであり、読もうと思えば、1日で読めてしまうだろう。(もちろん、深く、詳しく読もうと思えば、無限の時間がかかるにちがいないけれど)
 「変身」はある朝、起きてみると、自分が毒虫に変っていることに気づいたグレゴール・ザムザの話、「断食芸人」は、かつて有名であった断食芸を披露する芸人の話です。

内容と感想

 ある朝、商人のグレゴール・ザムザは目覚めると、自分が一匹の巨大な毒虫に変っていることに気づく。で、この後、なぜ自分が毒虫になってしまったのか、どうすれば元の姿に戻れるのか、と悩むかと思えば、そうはならない。「仕事に行かなければ」と思い、急いでベッドから抜け出そうとするのだ。当然、一緒に住んでいる家族は驚くし、その存在を認めようとしない。
 そこで、私が感じたのは、哲学でいうところの「同一性」という問題についてだ。グレゴールにとっては、体が変わっただけ(だけ、じゃないけど)だが、他の家族にとっては、グレゴールという存在はそこにはいない。いるのは「一匹の巨大な毒虫」だけである。
 さて、「同一性」つまり、「自己同一性」または、「アイデンティティ」と呼ばれるものにもいろいろあって、一つは、「身体説」と呼ばれるものだ。つまり、自分と身体が一緒ならば、同一である、と考えるやり方のことで、グレゴール・ザムザには、この点での「同一性」が欠けている。他者から見たグレゴールは、もはや「毒虫」でしかない。(ちなみに、ほとんど、または、ほぼ全くと言っていいほど、しゃべれなくなっている。)
 ただ、この身体説には問題点がある。 
 例えば、グレゴールの身体が毒虫になったので、毒虫はグレゴールではない、この毒虫を殺してしまおう、となると、グレゴールからすれば大きな問題だ。グレゴールの家族も、変身したグレゴールを避けながらも、殺そうとはしない。これが身体説の問題点である、身体は変わってしまっても、記憶や思考が同一である限り、同一である、とみなした方が、しっくりくる。
 これは、「心理説」つまり、記憶や思考が同一なら、同一である、という考え方で、身体説の問題点にうまく答えた形になっている。
 まあ、この心理説にも大きな問題があったりするのだが、今回はこのぐらいにしておこう。
 とにかく、グレゴールは、自分の部屋に閉じ込められ、妹が食事を運ぶ時に入ってくるのみ、母親は、彼の姿を見ようとしないし、父親は、貧しい家計を助けるために小間使いのような職を得ることになる。
 最初は、職場に行こうとするなど、人間らしさが残っていたが、食べる物の好みも変わり、壁や天井を這いだすなど、徐々に内面的な変化も続いていく。
 そして、最後、ある出来事が起こり、毒虫となったグレゴールの世話をやく必要がなくなった家族の反応が興味深い。
 休暇をとって、家族総出で郊外へ出かけてしまうのだ。そこに、グレゴールとの思い出、などの話は、一切出てこない。
 「同じ人間」でありながら、片方は毒虫になってしまう。そうなった時に、家族にとって、天井を這い、家を貸そうとした相手には気味悪がられるグレゴールとは、どんな存在に「変身」してしまったのだろうか。などと考えさせられる。
 最近、障害者を大量殺傷する事件が起きて話題になり、「障害者も同じ人間」ということが、再び言われている。ただ、その一方で、どこかに「実は違う存在ではないか」と考え、受け入れきれず拒絶するような「闇」が存在するように思えてならない。
(断食芸人は省略します)