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「反戦・脱原発リベラル」はなぜ敗北するのか (ちくま新書) 著:浅羽通明

書評:ノンフィクション・実用書

構成

 第二次安倍政権下で、集団的自衛権の行使を認める安保関連法案が成立し、東日本大震災以降、停止していた原子力発電が再稼働、また、原発輸出などの原発推進政策がとられるようになった。
 そして、これらの動きに対して反対する運動、例えば、大学生、若者を中心とした団体SEALDsの国会前反対デモが大きく盛り上がりを見せ、野党や知識人もこれに賛同、主催者発表で10万人以上を動員した政治運動となった。しかし、これらのデモや政治運動は、安倍政権の政策を止めたり、変更させたりすることはできなかった。
 なぜ、「リベラル」は敗北したのか? そして、これからどうすれば良いのか、について知ることができる一冊。
 プロローグ
     
第1章 リアル 実力は実力を伴う行動よってしか倒せない
  
第2章 バーチャル 政治的敗者はいつも文化へ逃げる
  
第3章 リベラルはビジネスを巻き込めるか
    エピローグ

内容と感想

 安保法案や、原発再稼働に対して、市民が様々な抗議行動を行った。その中でも有名なものが、大学生の団体SEALDsであり、それに続くように、「学者の会」や「主婦の会」のような様々な団体が生まれ、安保法案反対には、主催者発表で20万人という人数が集まったようだ。では、なぜこのような市民運動は安倍政権を止められなかったのだろう?
 著者は本書中でこれらのデモが「実力を伴わなかったから」だ、としている。「主催者発表で20万人も集まった、これだけの民意を無視していいのか。」という言葉があるようだけれども、日本中の有権者からすれば「たった20万人」でしかない。
 そして、著者は「安倍政権を『馬鹿だ』『民主主義を理解していない』というなら、その安倍政権に対して『民主主義ってこれだ』、『民意を反映しろ』という意味がない。政策を変えたいのなら、この運動を無視すると痛い目にあう(政権交代するとか、議席が減るとか)という実力を見せつけるしかない」と書く。
 著者によれば、歴史上で、「実力を伴ったデモ」によって、政策が変わったことがあるという。日本では大正時代の、日露戦争講和に反対した「日比谷焼き討ち事件」、最近では「アラブの春」と言われた革命がそれであるという。
 まあ、そうなんでしょうけど…
 これらの「実力を伴ったデモ」、デモと言うより暴動じゃないか、さらに、アラブの春に関して言えば、軍の寝返りもあった、内戦、クーデターではないか、と突っ込みを入れたくなってしまう。
 しかし、SEALDsなどのデモは、「誰でも気軽に参加出来る」また、「暴力は用いない」という姿勢を貫いた。しかし、結局はそれが「公務執行妨害で少し逮捕すれば蹴散らされるようなデモ」つまり、「実力を伴わないデモ」になってしまった理由ではないか、としている。
 「気軽に参加出来るデモ」だからこそ、20万人を集めることができたわけだけれど、「気軽に参加出来る」からこそ、実力を伴わないものに終始してしまった、のだと。
 そして、著者は本書中で「自衛隊に戦死者が出る」という抗議に「実力」をつける過激な方法を提案しているけれど、それは読んでのお楽しみ。
 では、暴動や内戦は行き過ぎとして、この時代にふさわしい「実力」とは何か、というと、それはやはり「選挙での投票」になる。
かつて、岸信之政権時の安保法案反対デモは、労働組合が中心となり、組織票を投じることが実力となっていた。沖縄のヘリパッド建設抗議デモは、「日当が出る」という批判がされることがある(日当が出る、はデマらしいけど)でも、この当時のデモは、労働組合から日当が出るのは当たり前、そして、組織化され、組織票を投じ、リーダーの指示に従って、ストライキを行うなど、自分の一部を犠牲にした抗議行動だっかからこそ、政権を変えるだけの実力があったのだという。
 組織化され、自分の一部を犠牲にしたからこそ、政権を変える力となった、しかし、現在の「個人の意見や自由」を大切にするリベラルはそのような抗議活動を行えず、実力の伴ったデモを行えない、リベラル派のジレンマが存在する。
 本書ではこのような調子で、リベラル派がなぜ勝てないのか、についての分析と批判が続いていく。「SEALDsは偏差値が〜」「正直言って、かっこ悪い〜」「民主党共産党が与党になるのは〜」と言った、感情的な批判ではなく、冷静に「なぜ勝てなかったのか」を分析している、だからこそ、強烈だし、容赦ない。
 「個人の意見を表明できるようになった、選挙で頑張ろう」と達成感に浸っている(これもリベラルの欠点である、と書いてあるけど)リベラル派にこそ読んで欲しい。
 この後の「負けても勝ちだと認識するリベラル派」について分析しているけれど、そこよりもおもしろかったのは最後の方。
 私はこれに「距離の問題」と名前をつけてみたいと思う。原発反対、戦争ができる国反対、軍国主義反対、と意見を述べても、それがどのぐらい「近い」のか? 戦争ができる国、軍国主義反対と言われても、すぐに戦争に自衛隊が参加するわけでもないし、現代の戦争は、配給制、学徒動員の「第二次世界大戦型の総力戦」にはなりそうにない。「アフリカのどっか」でしかない南スーダン自衛隊員が死傷しても、自分たちの生活に影響なさそうだし(知り合いに南スーダン行ってる人いないし)、自分たちの生活との「距離」はとても遠い。原発事故もそうで、福島や福井など、原発のある場所に住んでいる人からすれば大きい問題だろうけど、(有権者が多い)関東や、その他の地域の人からすれば、「アンダーコントロール」だし、「大事故に至らずに済んだ」と言う認識でしかない。
 それよりも、物価が上がったのに賃金が上がらない、年金もらえなさそう、解雇されるかも、と言った方がよっぽど「近い」問題だ。
 原発事故も政府が発表した「最悪のシナリオ」レベルになれば「近い問題」になるでしょ?
 今の共産党民進党は、「憲法改正阻止」や「戦争反対」「原発再稼働反対」などを争点にしようとしているようだけれど、そんなに「遠い」問題ばかり争点にしていても何も変わらないと思う。
例えば、アベノミクスを批判するとか、労働条件を大幅によくするような改革を公約するとか、そっちの方がいいと思うんだけど…

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