8月の砲声(上) 著:バーバラ・W・タックマン 訳:山室まりあ ちくま学芸文庫

構成

 第一次世界大戦開始前から、マルヌの戦いが起こるまでの間、ドイツやフランス、ロシア、ベルギーなど、各国の首脳部は、何を考え、どのように戦争を起こす、または回避しようとしていたか、について書かれたドキュメンタリーの上巻。
 1963年に、ピューリッツァー賞を受賞するなど、高い評価を受けている。
 上巻で448ページあり、冒頭には、登場人物の一部の写真、ドイツから見た東部戦線(対ロシア)と、西部戦線(対フランス)の2枚の地図が掲載されており、ドイツ軍の戦争計画について、理解を助けています。また、地中海での戦闘、ベルギー侵攻の部分には地図が付いています。

目次
第1章 大葬
戦争計画
第2章 「右翼最先端は、袖で海峡をかすめて通れ」
第3章 セダンの影
第4章 「ただ1名の英国兵」
第5章 ロシア式蒸気ローラー
戦争勃発
第6章 8月1日のベルリン
第7章 8月1日のパリ、ロンドン
第8章 最後通牒ブリュッセル
第9章 「落葉のころには家へ帰れる」
戦闘
第10章 「手中の敵ゲーベン号を取り逃がす」
第11章 リエージュアルザス
第12章 英国海外派遣軍大陸へと向かう
第13章 サンブル・エ・ミューズ

内容と感想

 まず、私はそれなりのミリオタとして、第二次世界大戦について書かれた本は、ある程度読んできた方だと思っている。対して、第一次世界大戦について書かれた本はあまり見かけず、「西部戦線異状なし」ぐらいしか知らなかったのだが、ある時、「8月の砲声」は必読、との書き込みを見て、これを読んでみることにした。
 まず、本書の冒頭は、1910年にイギリスの国王、エドワード7世が死去した、その葬儀の場面から始まっている。彼は、短い在位中に、日英同盟、英仏協商、英露協商を締結し、ピースメーカー、と呼ばれた人物であるらしい。(wikipedia参照
 平和条約が結ばれた、といえば、聞こえはいいが、別の言い方をすれば、各国が条約によってがんじがらめにされ、2か国間の戦争が、ヨーロッパを全て巻き込む戦争に発展し兼ねない、ということでもある。
 そして、ドイツ、フランス、ロシアの3カ国も、まさに、そんな関係にあった。フランスとロシアは、お互いがどちらかが攻撃されたら、攻撃した国と戦争をする、とい条約を結んでいた。(露仏同盟 wikipedia参照
 ドイツと雖も、フランス、ロシアを同時に相手にして戦うことはできない。ドイツが戦争に勝つには、輸送網が貧弱なロシアが動員を終えるまでの間に、フランスを攻め落とすこと、が必要になっていた。そして、フランスとドイツの国境には要塞地帯があり、突破は難しい。では、ベルギーを通って、英仏海峡の海岸線を沿うように大きく包囲を行い、フランスとの戦争に早期の決着をつけるしかなくなるのだ。
 そんなドイツ軍とそれに対する、フランスとイギリスの同盟関係など、「8月の砲声」上巻の中盤あたりまでは、ひたすら政治や戦略について語られている。戦争を理解する上で、必要ではあるのだが、純粋に「戦史」として各戦闘の詳細を知りたい人には退屈な部分であるかもしれない(登場人物も多いし)。
 しかし、この部分を理解することによって、戦争勃発以降、戦闘の進行が各国首脳部のコントロールを離れ、条約や軍の戦術の元、ブレーキが効かない状態のまま第一次世界大戦に突入していく様子を体験することができる。

「ですが陛下、それは不可能です。(中略)我が軍展開の段取りは、一年にわたる詳細な研究の結果完成したものなのです。

「一度決定されたことは、変更してはなりません。」

  各国の資料を詳細に読み込み、筆者の独断的な感想は避けた、という本書だが、なんだかちょっとだけドイツ側を悪く書いているような気がしないでもない。まあ、「ドイツの偉大なる目標を達成するために領土の拡大は必要なことである」という理由で戦争計画を立てて、実行する国をよく書くのも難しいでしょうけどね。
 まとめ? としては、「8月の砲声 上巻」からは、個々の戦闘の細かい描写は少なく、どちらかといえば政治的、戦略的な準備段階の話が多い印象を受けました。ただ、第二次世界大戦に比べて書籍数が少なめにも感じる一次大戦について知る上ではとても良い本だと思います。


 
 

変身・断食芸人 著:フランツ・カフカ 訳:山下肇 岩波書店

「ある朝、グレゴール・ザムザがなにか胸騒ぎのする夢から覚めると、ベットのなかの自分が一匹のばかでかい毒虫に変ってしまっているのに気がついた」(変身 冒頭)

構成

 冒頭の一文が、あまりにも有名な作品「変身」と、短編「断食芸人」の二作品が収録されている。解説も合わせて、108ページほどであり、読もうと思えば、1日で読めてしまうだろう。(もちろん、深く、詳しく読もうと思えば、無限の時間がかかるにちがいないけれど)
 「変身」はある朝、起きてみると、自分が毒虫に変っていることに気づいたグレゴール・ザムザの話、「断食芸人」は、かつて有名であった断食芸を披露する芸人の話です。

内容と感想

 ある朝、商人のグレゴール・ザムザは目覚めると、自分が一匹の巨大な毒虫に変っていることに気づく。で、この後、なぜ自分が毒虫になってしまったのか、どうすれば元の姿に戻れるのか、と悩むかと思えば、そうはならない。「仕事に行かなければ」と思い、急いでベッドから抜け出そうとするのだ。当然、一緒に住んでいる家族は驚くし、その存在を認めようとしない。
 そこで、私が感じたのは、哲学でいうところの「同一性」という問題についてだ。グレゴールにとっては、体が変わっただけ(だけ、じゃないけど)だが、他の家族にとっては、グレゴールという存在はそこにはいない。いるのは「一匹の巨大な毒虫」だけである。
 さて、「同一性」つまり、「自己同一性」または、「アイデンティティ」と呼ばれるものにもいろいろあって、一つは、「身体説」と呼ばれるものだ。つまり、自分と身体が一緒ならば、同一である、と考えるやり方のことで、グレゴール・ザムザには、この点での「同一性」が欠けている。他者から見たグレゴールは、もはや「毒虫」でしかない。(ちなみに、ほとんど、または、ほぼ全くと言っていいほど、しゃべれなくなっている。)
 ただ、この身体説には問題点がある。 
 例えば、グレゴールの身体が毒虫になったので、毒虫はグレゴールではない、この毒虫を殺してしまおう、となると、グレゴールからすれば大きな問題だ。グレゴールの家族も、変身したグレゴールを避けながらも、殺そうとはしない。これが身体説の問題点である、身体は変わってしまっても、記憶や思考が同一である限り、同一である、とみなした方が、しっくりくる。
 これは、「心理説」つまり、記憶や思考が同一なら、同一である、という考え方で、身体説の問題点にうまく答えた形になっている。
 まあ、この心理説にも大きな問題があったりするのだが、今回はこのぐらいにしておこう。
 とにかく、グレゴールは、自分の部屋に閉じ込められ、妹が食事を運ぶ時に入ってくるのみ、母親は、彼の姿を見ようとしないし、父親は、貧しい家計を助けるために小間使いのような職を得ることになる。
 最初は、職場に行こうとするなど、人間らしさが残っていたが、食べる物の好みも変わり、壁や天井を這いだすなど、徐々に内面的な変化も続いていく。
 そして、最後、ある出来事が起こり、毒虫となったグレゴールの世話をやく必要がなくなった家族の反応が興味深い。
 休暇をとって、家族総出で郊外へ出かけてしまうのだ。そこに、グレゴールとの思い出、などの話は、一切出てこない。
 「同じ人間」でありながら、片方は毒虫になってしまう。そうなった時に、家族にとって、天井を這い、家を貸そうとした相手には気味悪がられるグレゴールとは、どんな存在に「変身」してしまったのだろうか。などと考えさせられる。
 最近、障害者を大量殺傷する事件が起きて話題になり、「障害者も同じ人間」ということが、再び言われている。ただ、その一方で、どこかに「実は違う存在ではないか」と考え、受け入れきれず拒絶するような「闇」が存在するように思えてならない。
(断食芸人は省略します)

 

 

【ミリタリー選書38】各国陸軍の教範を読む 著:田村尚也

-戦勝の獲得を確実ならしむる手段は、重点方面に兵力資材を集結して、該方面に決定的優勢を占むるにあり-(ソ連軍教範より 本書 P.35)

-卓越せる指揮と軍隊の優越せる戦闘能力とは戦勝の基礎なり-
  (ドイツ軍教範より 本書 P.32)

-訓練精到にして必勝の信念堅く軍紀到厳にして攻撃精神充溢せる軍隊は、能く物質的威力を凌駕して戦捷を完うし得るものとす- (日本軍教範より 本書 P.39)

構成

 軍隊の作戦行動の基礎や指針となるものをまとめたものを「教範」と呼ぶ。
 本書では、フランス軍、ソ連軍、ドイツ軍、日本軍の四カ国の陸軍教範を読みくらべることで、その国の軍の性質を明らかにしようとしている。
 全体で354ページ、ミリタリー専門書であるため、軍事知識があればあるほど楽しめると思う、また、作戦図や写真も各所に掲載されていて、理解の参考になる。
 各兵士向けの教範、というより、軍団や師団向けの教範を紹介しているため、銃の撃ち方、格闘の仕方、みたいな「具体的な戦闘マニュアル」を求める人には向かないだろう。どちらかといえば、「陸軍理論」「作戦の立て方」に興味がある人向けの内容である
 章立てはシンプルで、行軍、捜索(偵察)、攻撃、防御、ごとに4か国の教範を比較して取り上げる形になっている。

内容と感想

 各国陸軍、とあるが、上記の通り、フランス、ソ連、ドイツ、それに、日本の教範について扱っている。第二次世界大戦の主役である、アメリカ軍の教範について触れられていないのが気になるかもしれないが、「古くからの陸軍国であり、伝統的に陸軍の兵学で世界をリードし、独自に理論を発展させた国」の教範に、読者の関心の高いであろう、日本の教範をプラスした、4か国の教範を紹介することにした、とのことである。
 教範には、記事冒頭に挙げたように、各国陸軍の性質が現れていて面白い。
 「マジノ線」のイメージのあるフランス軍は、陣地戦志向の軍隊であり、第一次世界大戦のような戦争がもう一度、起きることを想定していたような教範だ。また、この教範は、「理論書」的な側面が大きいもので、具体的にどうこう、といったことはあまり書かれていない。
 一方、ドイツ軍は、「運動戦」志向、精鋭志向の軍隊であり、第一次大戦の浸透戦術(小部隊が各自、敵の弱いところを攻撃するような戦術と認識して結構です)の伝統から、下級の指揮官にも柔軟な判断を認め、「戦闘とは、自由であり、創造的な行為である」とするなど、攻撃面では先進的だが、一方、防御面では古さも残る。
  そして、最も意外だったのは、ソ連軍の教範が、とても先進的な教範であった、という点だ。ソ連軍、といえば、物量のイメージが強いけれど、各国軍が一つ一つの戦いに勝つ方法を記述するのにとどまっているのに対して、「決戦方面で圧倒的な物量の優勢を築くために、それ以外の戦線の兵力は、相手を押しとどめられるぐらいでいい」と記述されている。ソ連軍の「縦深攻撃」(wikipedia参照)が、画期的な戦法であることは知られている(はずだ)けれども、ソ連の教範は防御面でもとても優れていた、とは知らなかった。精鋭ドイツ軍と練度に劣り、物量しかないソ連軍の激突、というのは、わかりやすくはあるのだが、そのイメージについては、一考の余地があるだろう。
 とにかく先進的なドイツ軍と、古臭いソ連軍のイメージが意外な形で裏切られた本書だが、残念なことにイメージ通りだったのが日本軍の教範。
 教範の仮想敵国はソ連軍であり、物量で上回るのは不可能、なので、とにかく攻撃して相手を倒そう、というような内容。ドイツ軍がここぞというときに兵士に全力を出させるために「兵士を愛惜(大切にする)し」と繰り返し書き、ソ連軍が兵士の睡眠時間まで教範に書きそれを守るように指示した(実際はどうだったのか知らんけど)のに対し、日本軍の教範にそれという記述がないのは現代にも通じる「気合と根性」な国民性なのだろうか。情報が不確実な時もとにかく迷うより攻撃せよ、とあるのも結局は情報戦の軽視へと繋がっているような気がしないでもない。


 私のようなにわかのミリタリーマニアが語るのもおかしいが、とにかく弱いやられキャラなイタリア軍、精鋭だが物量に負けたドイツ軍、作戦も何もなく、とにかく物量押しを図るソ連軍、のように、一般的に各国軍に対するステレオイメージが完成しており、一般社会の間では第二次世界大戦がそのような「イメージ」でしか語られない、という側面があるように思える。そのイメージで一般社会を見る分には問題ないだろう。しかし、そのイメージだけでは正確な第二次世界大戦を知るのは無理がある。第二次世界大戦でなぜ、ドイツ軍が強かったのか、そして、ソ連軍はなぜ、そのドイツ軍を打ち破ることができたのか、など、第二次世界大戦に興味があり、各国の戦術理論を知りたい、と思う人には、お勧めできる一冊だと思う。

 

 

鋼鉄はいかに鍛えられたか 著:N.オストロフスキー

死に立ち向かって進む人間だけが、あんなに情熱を込めて歌えるのだ。
(上巻 P.276)

 構成

岩波文庫から発行、上下巻の2冊に分かれており、合計600ページぐらい。
翻訳も読みやすいですが、人物名が複雑で、登場人物も多いため、人物の把握には苦労します。特に、ロシア文学は、名前が複雑で、主人公のパヴェルも、パフカ、パブルーシャ、など、呼び方が様々あります。登場人物一覧が欲しいですね。あと、ロシア帝国から、ロシア革命第一次世界大戦、その後の国内戦と第二次世界大戦前までのロシア史、トロツキーやレーニンなどについてちょっとでも知っていると、とても楽しめると思います。

内容と感想

ウクライナの街、シュペトフカに住んでいる、主人公、パフカ(パヴェル・コルチャーギン)は、いたずらにより、学校を追い出されてしまう、その後、駅食堂の厨房や、発電所で働いていたが、ロシア革命により、ロシア帝国が崩壊し、ソ連が誕生、それに父もない、ドイツ軍によるソビエト侵攻(第一次世界大戦)が発生する。第一次世界大戦後、町は赤軍によって解放されるが、その後、シュペトフカはウクライナ社会主義党の大アタマン・ペトリューラの部隊によって占領されてしまい、略奪や暴行が起き、パフカも処刑されそうになってしまう。ある手違いから、間一髪、処刑の危機から脱出し、そして、赤軍が再び街を解放する。主人公パフカは、赤軍騎兵の一員として、国内戦などを生き抜き、その後は、共産党の組織の一員として、ソビエトの発展のために働き、激動の時代を生き向いていくが、1920年の国内戦参加時に負った、背骨への傷が悪化し、一気に病気がちになっていく。パフカは、療養や、手術を繰り返すも、手足の麻痺や、失明などの、重い症状が頻発する。それでも、革命の戦列から、落伍し、党のために働けなくなることを恐れ、仕事に復帰しようとするが、重い病状のため、それも叶わなくなっていく、そんな中、パフカは、最後にある方法で、革命の戦列へと戻ろうとする。

「鋼鉄はいかに鍛えられたか」は、ロシアの作家、ニコライ・オトロフスキーが、失明や全身麻痺などの病気と闘いながら、出版し、ソ連内外で高い評価を受けた小説である。題名の、鋼鉄はいかに鍛えられたか、を見たときに、プロパガンダかな?、と思った。確かに、ウクライナの国境警備兵が、「ごきげんよう、同志」と親しげにあいさつを交わす、赤軍兵と上官を見て、自分の上官がこのように、親しく話しかけることはないだろうな、と思う場面など、プロパガンダっぽい部分もあるけれど、しつこいプロパガンダ全開の話では全くないし、主人公が、農奴から、赤軍騎兵、そして共産党組織の一員として、戦争や、鉄道建設、匪賊への対処など、立ちはだかる様々な問題を解決していく姿は、ソビエト版のサラリーマンもののエンタメ小説のようでとても面白い。また、wikipedia参照になってしまうけれど、作者はソ連の体制については、批判的であったそうだ、その理由もこの小説を読むとなんとなくわかってくる。ソ連では、レーニンの死後、スターリンが独裁的な体制を築いていくけれど、この小説中で行われる社会主義は、議論を戦わせ、民主的に採決し、実行する、という、独裁体制とは真逆を行く方法で計画を実行していく。ソビエトや、共産主義というと、独裁のイメージが強いけれど、社会主義共産主義思想の理想的姿とは、まさに小説中にあるようなものではないだろうか。

そして、この小説は、作者、ニコライ・オストロフスキーの半自伝的小説であるらしい。(wikipedia参照)主人公の、住んでいた町の名前や、食堂、発電所で働いていた話、そして、失明などの病気や、その後の生活など、相当の共通点がある。この本のあとがきにもある通り、自伝的小説であるがゆえに、強烈な個性を持ったキャラクターがあまり出てこない、など、欠点はあるものの、退屈は決してしない。戦争と平和罪と罰、などと違って、「眠くならないロシア文学」の一冊として、ぜひ読んでみることをお勧めする。


 

 

 

チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷 著:塩野七生

構成

1475年生まれ、そして、1507年に、わずか、31歳で死亡する、イタリアの軍人にして、政治家、「君主論」を記した、ニコロ・マキャベリが、「理想の君主」とした、チェーザレ・ボルジアの生涯について書かれた歴史小説。様々な地名が出てくるが、冒頭に、当時のイタリアの地図がついていて、各所で参照しながら読むといいだろう。ただし、人物が数多く登場し、〇〇公△△とか、〇〇伯□□などと、人名が複雑な部分もある。ただ、塩野七生氏らしい、読んでいて飽きない文章であり、人名に注意して読めば、混乱することは少ないだろう。

内容

ルネッサンス期のイタリア。ドイツは、神聖ローマ帝国、フランスはフランス王によって統一されていたが、イタリアは、教皇領や、ナポリ王国フィレンツェ共和国など、様々な国家に分裂したままであった。時の法王、アレッサンドロ6世の息子であったチェーザレは、法王の息子という、キリスト教的には異端の存在であった。(何しろ、聖職者は、妻帯しないはずなのだ)そんな彼は、一時期、枢機卿にまで上り詰めるが、その地位を捨て、法王の名の下に、イタリア半島の統一を進めていく。

感想

 チェーザレ・ボルジアは、ニコロ・マキャベリに「理想の君主」と呼ばせたほどの男だが、マキャベリの君主像といえば、「君主は獅子の獰猛さと、狐の狡猾さを 併せ持たなければならない。あるいは、 そのように思わせるよう振舞わなければ ならない。」というような人物。権謀術数とか、マキャベリズムなどと呼ばれ、批判されることもあるが、チェーザレはまさにそんなヤツ。一言で言えば、「ヤバイヤツ」なのだ。かつての宿敵であったフランス王と協力関係を築くが、それは完全に合理性から出たもの。作中様々な「協定」やら「約束」が出てくるが、チェーザレにとって「心から」なんて言葉はないんじゃないか、というぐらい、徹底的に「合理」であり、フランス王や法王を完全に利用して、イタリア統一へと進んでいく。自らの計略を知りすぎた人間、市民から人気の高かった君主などの暗殺も平然と行う。

彼らは、自己の感覚に合わないものは、そして自己が必要としないものは絶対に受け入らない。この自己を絶対視する精神は、完全な自由に通る。宗教からも、倫理道徳からも、彼らは自由である。ただ、究極的にはニヒリズムに通ずるこの精神を、その極限で維持し、しかも、積極的にそれを生きていくためには、強烈な意志の力を持たねばならない。

(本書 P163)

チェーザレの、建築技術総監督として働いた、レオナルド・ダ・ヴィンチと、チェーザレが出会う場面で描かれているこの描写こそ、チェーザレの生き方を象徴する文章ではないかと思う。しかも、ざまざまな国を征服し、権謀術数の限りを尽くしたのが、若干20代というから恐ろしい限りである。フランス病(梅毒)で31年の生涯を終えなければ、歴史はどうなっていただろうか。

*改稿 2016/8/3
 本書は、歴史的事実を基にして書かれてはいるが、あくまでも「歴史小説」である、ということに注意してほしい。塩野七生氏について、よくある批判のうちに、「歴史小説であるのに、図書館などで、歴史書として扱われ、また、そのように読まれている」というものがある。私は、ローマ人の物語や、十字軍物語も、夢中で読んだ人間だったので、初めて、この種の、「塩野七生批判」を読んだときはショックを受けたものだった。(誰でも自分の好きな作家やアーティストが批判されていると、それを否定したくなる気持ちはわかると思う)
 例えば、「ローマ人の物語」では「気候変動」という要素を無視し、為政者の失政がローマ帝国衰退の原因である、とする、また、例えば、ユリウス・カエサルに対する「キャラ萌え」のような要素がある、という批判があるようだ。
(リンクを貼っておきます→

d.hatena.ne.jp
 確かに、この「チェーザレ・ボルジア」でも、そのような、「キャラ萌え」要素はあるだろう。(塩野七生氏のマキャベリ好きは言うまでもない)
 残念ながら、私が舞台となった時代に疎いこともあって、この本に何が欠けているのか、を知るまでには至らなかった。しかし、塩野七生氏は、自らについて、「歴史小説家」と述べている、本書も歴史書、としてみるには正確ではない、という批判も当てはまるだろう、ただ、チェーザレ・ボルジアを主人公とした歴史小説、としてみれば成功作であることは間違いないだろう。
 そんなわけで、この「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」は本日をもって、カテゴリ「書評:歴史」から、「書評:フィクション」に変更します。
 なんどもしつこいけど、小説としては面白いからね!

 

 

 

バンクシー・ダズ・ニューヨーク

どんな映画?

バンクシー、と呼ばれる、世界的に有名な、正体不明のグラフィティ(落書き)アーティストが、ニューヨークを訪れ、10月1日から、一ヶ月間、毎日、ニューヨークのどこかに自らの作品を残すことを宣言する。

バンクシーは毎日、ウェブサイトに作品の写真や動画、音声ガイドを掲載するが、その作品の場所は記されていない。バンクシーの追っかけファンや、作品を高額で売ることを目指す美術商、など、バンクシー作品とそれを巡る人々の動きに焦点を当てたドキュメンタリー映画。


映画『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』予告編

映画の内容

世界的に有名でありながら、正体不明のアーティストとして活動する、バンクシー、そんな彼が、「屋内より外がいい」と題して、10月から1か月間、毎日、ニューヨークのどこかに作品を制作することを宣言する。作品はウェブサイト上に写真や動画でアップロードされるが、その場所は明らかにされていない。バンクシー作品を生で見ようとする人はSNSや動画投稿サイトを駆使して、場所を特定しようとする。バンクシー作品を追う人々は、バンクシーの追っかけだけではない。ニューヨークの富裕層が住むある地区に巨大なギャラリーを持つ美術商は、バンクシー作品が書かれた壁やドア、シャッターなどを切り取り、数十万ドルという値段で販売することを目論んでいる。例えば、ファンが見ている目の前で、カッターを使って作品を切り取るようなこともする。この行為に対して、「窃盗ではないか」、「バンクシー作品を使って、儲けることを目標としている」、「パブリックアートを理解していない」と批判的意見を述べる人も多い。

そんな人に対して、バンクシーはとっておきの皮肉を用意する。人を雇い、自分のスプレー作品を一枚60ドルで売ったのだ。皆がバンクシー作品を追いかける中、露天で販売されているバンクシー作品に注目する人はおらず、1日でたった420ドルの売り上げにしかならなかった。(二枚は半額に値切られた。)そして、その様子がバンクシーのサイトにアップされると、60ドルの絵は、1枚、25万ドルの値がつくようになった。映画に登場した人は言う「美術商で、バンクシー作品を買い損ねたことを残念がる人は多い。しかし、そんな人はバンクシー作品が欲しいのではない。バンクシーの作品を60ドルで買う機会を逃したことを残念がっているのだ。」

政治的、社会的に議論を呼び起こす作品も多いバンクシーは、この展示会を通して、ニューヨークの持つ問題を明らかにする。貧しい人の多い地区に作られた作品はたまたま、その近くに住んでいた人が、作品にダンボールをかぶせ、写真を撮りたければ5ドル払うように要求する。彼は、「この作品がなければお前ら(美術愛好家など)はこんなところにはこないだろ?」という。

ニューヨークやアメリカの持つ問題を明らかにしながら、バンクシーの作品が、一つ一つ作られていく…

感想

バンクシー作品を通して、ニューヨークの持つ問題が明らかになっていく過程がとても面白い。

貧しい人の多い地区に作品を作り、その撮影に5ドル要求する人(バンクシーとは無関係)が現れた場面、取り壊し予定の工場の敷地内に作られた作品を従業員が持ち去り、自宅に保管、高級住宅街に巨大ギャラリーを構える美術商に35万ドルで委託販売するあたりは、アメリカの経済格差を浮き彫りにする。

その他、資本主義の中心地であるニューヨークが、強大な資本に飲み込まれていく様子も描かれる。ニューヨークの土地価格が上がり続け、再開発によってつくられる店や、マンションはことごとく富裕層むけになり、地元の人間には何の影響も与えない、そんなアメリカの持つ格差や社会問題が、バンクシー、というアーティストの活動の結果、明らかになる、そんな構成の映画だった。

シティ・サバイバル 都市生活者の生き残りテクニック 著:ブルース・バウアリー

構成

もし、都市を大災害が襲ったら、私たちは、何に気をつけなければならないのだろうか。都市には、パニックや暴動など、都市特有の危険もあるに違いない、そんな、都市特有の危険から、どう身を守れば良いのだろうか。本書は、そんな都市生活者のためのサバイバル術を解説している(ハズ)である。

プロローグ サバイバルって何だ。ー生きようと思わない人には死んでもらおうー

第1章 都市を生き抜くサバイバルテクニック ー人間は常に都市の中に住んでいるのだー

第2章 サバイバル常識講座 ーこのくらいは知っておきたい基礎知識ー

第3章 近未来カタストロフィ ー君は生き残れるか、地獄の惨状

内容

 本書は、都市で災害が起こった時のサバイバル対策書であり、災害以外にも、都市に潜む様々な危険から、身を守る方法を解説している。はずなのだが、ちょっと古い本だ。「ソ連が、東ドイツに進行した時、ヨーロッパにいる、あなたはどうすればいいのだろうか」、なんて書かれても、「どっちも、もうありません」としか答えられないような…

とにかく、この手の本に記載されている「危険」には時代背景や、お国柄が反映されているようで面白い。「核攻撃に備えよう」と書いてあるのは、冷戦下だったからだし、暴動や略奪を恐れるあたりは、さすがアメリカ、といった感じがする。

ただ、役に立たない本ではない。「自動車にひかれる時はボンネットの上に飛び乗るようにすると良い」とか、「パニック状態の群衆に巻き込まれた時は、とにかく人の上を目指せ」とか、「自動車に乗っていて衝突した時は、車に体を押し付けるようにすると良い」などと、役に立つ知識もちゃんと載っている。(多分)非常食を用意しなさいとか、家族で集合場所を決めておきなさい、とかは、ずっと昔から言われてきたことみたいで、この本にも載っていること、それでも、つい面倒くさがって準備をしないのが人間だな、とこの本を読んで思ったり。

役に立つ部分も多いけれど、やっぱり、最新の情報が書いてある本を買ったほうがいいんじゃないか、と、これからこの本を読む人に言っておこう。(いないかな)