【感想・レビュー】エリジウム

どんな映画?

 「第九地区」で有名になった、ニール・ブロムカンプ監督のSF映画。
人類がスペースコロニーエリジウム」に住む富裕層と、荒廃した地球に住む人に分かれた未来を舞台にした映画。


映画『エリジウム』第1弾予告編

映画の内容

 人口増加により環境が悪化した地球。ごく一部の富裕層は、豊かな暮らしを続けるために、エリジウム(神々に愛された人々が死後に住む楽園の意)と名付けられたスペースコロニーに移住し、高度な医療技術の恩恵を受け、不老不死に近い生活をし、地球に取り残された人々は荒廃した地球での生活を強いられていた。
 マット・デイモン演じる主人公マックスは、元は自動車泥棒などで有名だったが、現在はアーマーダイン社の工場で働いている、そんな彼は工場で致死量の放射線を浴びたことにより、余命5日を宣言、工場を解雇されてしまう。彼は知り合いで、不法移民の手助けをしているスパイダーを訪ね、エリジウムへ行くための切符を手に入れる代わりに「危険な仕事」を行うことを承諾する。
 その「仕事」とは富裕層の脳内データをマックスの脳内に転送し入手すること。マックスはアーマーダイン社の社長を襲いデータを入手することに決める。
 一方、エリジウムでは、不法移民に対し、断固とした政策をとるべきとするデラコート長官とエリジウム総裁が対立、長官はエリジウムを設計したアーマーダイン社の社長にエリジウムの再起動プログラムを作らせ、新総裁への就任を目論む。
 余命5日となったマックスは、神経系に接続された強化外骨格を装着、計画通りにアーマーダインの社長を襲撃、脳内データを転送するマックスだが、その時にエリジウムの再起動プログラムも一緒にマックスの脳内に送られてしまう。襲撃の結果、アーマーダインの社長は死亡したため、再起動プログラムはマックスの脳内にあるもののみとなってしまう。
 マックスは、再起動プログラムの入手を目論むデラコート長官に追われることになる。

感想

 本作のニール・ブロムカンプ監督は、前作の「第九地区」で、南アフリカを舞台に、人種差別政策やアパルトヘイトをテーマにした作品を作った人で、リアルなメカデザインや画面の細かいこだわりなど私の好きな要素をしっかり抑えてくれる人。
 そして、「エリジウム」のテーマは格差社会エリジウムのように、宇宙ステーションに滞在する、とまではいかなくても、「富によって住む場所や受けられるサービスが違う」というのは実際にある話。アメリカでは、サンディ・スプリングスという富裕層が多く住む地区が住民投票によりフルトン郡から独立、警察や渋滞緩和、道路、公園施設整備の恩恵を受ける一方、独立されたフルトン郡では税収の減少により行政サービスの縮小を余儀なくされる、という問題が起きているそうだ。「より良い行政サービス」そして、「なぜ自分たちの税金を貧困地区のために使わなければならないのか」という意見がサンディ・スプリングスの独立につながったそうだ。
 終盤のシーンでわかるようにエリジウムとそこに暮らす富裕層には地球の人々を治療し格差を縮める力がある、きっと、現在もそうなのだろう、「できない」のではなく「やりたくない」のだ。
 工場で働く主人公マックスはブルーカラー(文字通り青いツナギ着てる)、その上にはヘルメットにスーツの現場責任者がいるけれど、彼も「菌が移るから口を塞げ」と社長に言われて反論できない、さらにその上にはアーマーダインの社長(業績悪化のため仕方なく地球暮らし)その上には株主や政府関係者(エリジウム居住)がいて、「実際に手を汚して働く人は貧しく、株主や権力者ほど豊か」という構図は、現代の社会を見ても似たようなものがある。地球では刺青いっぱいのラテン系、アフリカ系をいっぱい出して、一方のエリジウム住民は白人率を高めにしてるのもわざとやっているにちがいない。
 映画のテーマは前作の第九地区よりもわかりやすく、配役もいい奴と悪い奴が割とはっきりとしていて、第九地区のような「えっ、この後どうなるの」的展開には欠ける。
 ただし、ありそうなメカデザインや、痛そうな手術場面など、この監督のこだわりどころは健在、第九地区で見事「感情移入できない」「クズ」とレビューされた主人公ヴィカス・ファン・デ・メルヴェを演じたシャールト・コプリーはエリジウムの現地工作員役で出演。第九地区では「自己中ダメ人間役」を演じた彼は今回も「重犯罪者の工作員役」を怪演。子供にこもり歌を歌ったり、相手を挑発したりと単に暴力的な悪役よりも「なんかやばいやつ」感満載の演技。
 前作の第九地区が傑作すぎる、と言っていい傑作だったこと、ジャンルや監督が同じことからつい、「前作と比較して〜」と言われがちな本作だけれども、十分見ごたえありの作品です。