【感想】人類遺産

どんな映画?

 ロングランヒットとなった「いのちの食べ方」などのドキュメンタリー映画監督、ニコラウス・ゲイハルター氏の作品。人間の手によって作られ、利用され、そして放置されて朽ちてゆく廃墟に焦点を当てた作品。


『眠れぬ夜の仕事図鑑』などのニコラウス・ゲイハルター監督作!映画『人類遺産』予告編

映画の内容

 人類が作り上げ、利用し、そして放置されて朽ちてゆく廃墟に焦点を当てた作品。
登場人物がいないばかりでなく、ナレーション、音楽もなく、様々な廃墟が少しづつ朽ちてゆくようすを美しい映像で見せる。
 ブルガリア共産党本部、軍艦島発電所の冷却塔、病院、軍艦、そして、福島の原発事故により立ち入り禁止となった町まで、世界中の70か所以上の廃墟が登場する。

映画の感想

 登場人物なし、ナレーション、音楽なし、加えて言うならば、うつされている場所の説明もカメラの移動もない。映画館の中で約90分の間、廃墟の映像が流れ、一瞬暗転し、また別の廃墟の映像が流れ、を繰り返す。
 映画館の中で聞こえるのは、風の音、水の音、廃墟や放置された物が動く音、虫や動物の立てる音だけ。(後、寝てる観客の寝息(笑))
 私は廃墟写真などを見るのが好きなので、それなりに名前もわかる廃墟や、かつて何だったのかわかるところもあったけれど、初めて見る場所も多かった。
 登場する廃墟は、ヨーロッパの廃城や古代の遺跡というより、ブルガリア共産党本部、軍艦島発電所の冷却塔や放置された兵器、かつて鉱山で賑わい、そして砂漠へと帰っていく街など、人間がその産業や思想のために作り、そして放置したようなものが多かった。また、廃墟にはつきもの?の落書き後などもうつされていない。廃墟となった後、人がいっさい手を触れることなく自然に朽ちてゆく廃墟を写したかったのだろうか。
 映像に関しては、カメラアングル固定、ズームアップやピントのボケを利用した効果も一切ない。人の視野に近いレンズを使っているのだと思う。(たぶん)
 ただ、画面に全く動きがないわけではない。風が吹いて窓や物が動いて音を立て、水が滴りおちる音が響いて、水面で反射した光が壁や天井に模様を描く。雪や砂が廃墟を覆い隠したり、動物がいたり、鳥や虫が飛ぶ。カメラを固定して長時間撮影し、そして動きのあるシーンを採用したのかな? と思いながら見ていた。また、水面の反射や光と影を計算して、アングルを決めて撮影されたのだろう画面は見ていて飽きない。
 日本語の題名は「人類遺産」、ポスターのコピーには「そうして、人類の時代は終わりました」とある。昔「人類が消えた世界」という人類消滅後のシュミュレーションをした本を読んだけれど、その世界を見たらこの映画のように見えるのだろうか。
 どんな目的で作られたか、なぜ放棄されたのか、誰のものなのか、なんという名前なのか、そう言ったこととは関係なく、人が作ったものが自然の一部になっていく。
 これら廃墟は自然や動物にとって、もう名前などない「人類遺産」、もしくはこれらを残した存在が「Homo Sapiens」(原題)なのかな、などと思った。

公式サイト(日本語版)

jinruiisan.espace-sarou.com

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【感想・レビュー】映画:虐殺器官

人間は見たいものだけしか見えないようにできているんだ
私たちの世界には指一本触れさせない

どんな映画?

 ガンにより、若くして亡くなったSF作家、伊藤計劃のデビュー作「虐殺器官」をアニメ化した作品。サラエボが手製の核爆弾で消滅した後、先進国では生体認証など監視システムを導入し、テロ対策が進んでいた。
 一方、それ以外の世界は発狂すると決めたかのように、順調に発展するかと思われたた諸国が、内戦や虐殺へと転げ落ちていった…
 


「虐殺器官」予告映像

内容

 サラエボが手製の核爆弾で消滅した後、先進国は生体認証などの監視システムを導入し、テロの恐怖から自由を得ていた。一方、その他の世界では、順調に発展するかに見えた国が内戦やテロに見舞われ、虐殺も頻発していた。アメリカ情報軍情報検索群i分遣隊に所属する特殊部隊隊員クラヴィス・シェパード大尉の任務は、「あるアメリカ人を見つけること」。
 「ジョン・ポール」と呼ばれるそのアメリカ人は、発展途上国支援のために国の窮状などを訴えるPR担当として、情報宣伝にかかわっていた。しかし、彼が訪れた国はその後、内戦やテロへ転げ落ち、虐殺へと発展していく。
 ジョン・ポールがチェコ共和国の首都プラハを訪れた、という情報を得たクラヴィスチェコに駐在するビジネスマンを装い、チェコ語の個人教授として生計を立てるジョンポールのかつての愛人、ルツィア・シュクロウポヴァの元を訪れる。情報機関から「プラハで消えた人間のトレーサビリティ(追跡可能性)はゼロ」と言われる都市プラハでルツィアに連れられたクラヴィスが見たものは、生体認証ではなく、独自の地方通貨を使った支払いができるクラブの存在だった。クラブのオーナー、ルーシャスは「自由とは取引である」と考え、政府の情報管理から外れたクラブを運営していた。
 クラブからの帰り道、ルーシャスなど「計測されざる者たち」を名乗るジョンポールに協力する人々に捕らえられたクラヴィスはジョンポールと出会う。
 ジョンによれば、人間の脳には虐殺を肯定するモジュールがあり、それを動かす深層文法、いわば「虐殺の文法」が存在するという。それに対して、「思考は言葉によって基底されたりしない」と反論するクラヴィス。特殊部隊の突入でクラヴィスは救出されるが、ジョンポールとルツィアは姿をくらましてしまう。
 その後、インド・パキスタン国境にジョンポールが潜伏しているという情報をもとにジョンポールの逮捕に向かったi分遣隊のメンバー。戦闘適応感情調整、痛覚マスキングを受けた特殊部隊員たちは、子供兵を含む敵兵を次々と射殺しながら任務を遂行していく。逮捕されたジョンポールはクラヴィスに向かって、戦闘時に自らの行為を正当化し、任務を冷静に遂行するために感情を調節する戦場適応感情調整の持つ作用と、虐殺の文法が持つ作用はとても似ているものだ、と言う。その途端、i分遣隊は自分たちと同じような痛覚マスキングを受けた謎の部隊の追撃に巻き込まれる。
 ジョンポールは過去の戦死者、行方不明者のIDを持つ「計測されざる兵士」によって奪還されてしまったが、i分遣隊は彼とルツィアがウガンダに潜伏していることを知る…

感想(ネタバレあります)

(用語解説が必要な方は先にwikipediaを読むことをお勧めします、ただしネタバレあり こちら:虐殺器官 - Wikipedia
  虐殺器官は、夭逝の作家、伊藤計劃のデビュー作であり、ゼロ年代ベストSFの一つとして知られる名作であるが、人間が生まれつき持っている文法生成機能と、人間の行動に影響を及ぼす「虐殺の文法」、そして、兵士が戦闘時に冷静に戦えるようにする戦闘適応感情調整や痛覚マスキングとの関係、そして、テロと自らの住む世界の関わりなど現在の世界が持つ問題をたくさん含んでいるSF作品であるため、映像化は難しいのではないか? と言う疑問を持って見ていた。
 映画版「虐殺器官」のストーリーは、クラヴィスの見る「死者の国」の夢のくだり、また、彼が「殺した」母とのエピソードが大きく削られている。(そもそも母の存在に触れられていない)。ただし、それ以外の部分は割と忠実に映像化しており、映画の時間内という制約の中でうまく話をまとめていると感じた。
 ただ、伊藤計劃氏のブログに書かれている「主人公が実は大嘘をついていました」という裏読みを映画版で行うことはできない。
 「映像化」という部分でいうならば、クラヴィスたちがヒンドゥー・インディア共和国暫定陸軍との戦闘で、廊下から出てくる少年兵たちを次々と撃ち殺していくシーンは、オルタナ(ARみたいなやつ)で視界上に表示されたレティクルが移動し少年兵たちを次々と射殺していく、まるでFPSゲームのプレイ動画ように描かれる。少年兵を次々と射殺する、という場面を衝撃的に描くのではなく、あえてゲームのように描くことで、クラヴィスたち特殊部隊員たちが冷静に、何の迷いも、罪の意識もなく射殺していく様子を観客が追体験できるようになっていた。
 この作品は、表現方法の追求のため、また、制作会社の倒産などで公開が遅れ、ハーモニー、屍者の帝国に続く最後の公開作品となったが、結果的に公開時期である2017年の世界の現状にとてもマッチしていると思う。
 虐殺器官の世界では、9.11以降、そしてサラエボ核兵器で消滅した後、先進国は個人認証を徹底し、誰がどこに行き、何をしたか、まで徹底して監視する社会を構築し、テロの脅威から逃れている。指紋や虹彩、脳波まで感知するセンサーが各所に設置され「個人の自由」というものを徹底的に明け渡すことで「テロからの自由」を得ている。
 現在でも通信の傍受や、歩き方からテロリストを見つけ出す監視カメラ、など虐殺器官の世界の技術へと一歩一歩近づいているが、虐殺器官ではそれらの対策に対して疑問を投げかけている。

ほんとうの絶望から発したテロというのは、自爆なり、特攻なり、追跡可能性を度外視したものであるからだ

 この言葉は、現在ヨーロッパやアメリカで問題となっている「ホームグロウンテロリスト」の存在を予言したかのようなものだ。難民や移民を受け入れて、受け入れ先の社会との再統合に失敗した時、また、格差が広がっていき、貧困層が絶望した時、どんなテロ対策も無効にするテロが起きてしまう可能性が存在する。
 では、その時「真のテロ対策」として何ができるだろうか?
 自分たちの生活を少しばかり犠牲にしても世界の人々を救うか、それとも、テロの原因となる人々を徹底的に排斥した社会を構築するか。
 作品中では、ジョンポールが世界中で虐殺の文法を唄い、虐殺やテロ、内戦を起こすようになった理由としてサラエボのテロで妻子を失ったことが挙げられている。

彼らには彼らで殺しあってもらう、私たちの世界には指一本触れさせない

 世界は、世界中の平和を願うほどには発展していない、そして人は見ないものしか見ないのだから、世界を私たちが暮らす世界とそうでない世界の二つに分け、私たちが暮らさない方の世界にあり、私たちの自由が原因で苦しめられていることに気づきそうな国を混沌に落とすことでテロが私たちの世界を脅かすのを止める、というジョンポールの考えに、私たちはどれだけ反対できるだろうか?

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【感想・レビュー】カレ・ブラン

どんな映画?

 管理社会、人肉食、「家畜」と「社畜」…
勝者は「社畜」となり、敗者は「家畜」となるディストピア世界を描いたフランス映画


映画『カレ・ブラン』予告編

あらすじ

 主人公フィリップの母は、人肉加工会社に勤めていたが、「心を隠しなさい」と言い残して、アパートから投身自殺してしまう。孤児の集まる学校で生活するようになったフィリップは、飼ってた犬の首輪を使って首吊りを図るが、同じ学校に通う少女マリーに救われる。その後、フィリップは会社員としての日常を送っていた。その仕事は採用試験として理不尽なゲームを行わせること。一方、フィリップを救った少女マリーはフィリップと結婚していたが、会社員として成功したフィリップを好きになれず、二人の関係は冷え切っていた。上司の誕生パーティーに参加した二人は、4人の男たちが彼らのスーツを汚した給仕を殺す様子を目撃する。その帰り道、二人はその男たちに襲われそうになるが、駐車場の警備員パトリスに救われる。後日、フィリップの元を訪れた男たちに対して、彼は「愛社精神を試すため」として殴り合いをさせる。夜、人肉食を食べるスーツ姿の男を車で轢き殺したマリーは、自らの身分証明書を投げ捨てる。この事件の後、二人組みの男がフィリップたちの部屋のドアを激しく叩く。事態を察したフィリップはマリーを問い詰めるが、マリーは、部屋から飛び降りてしまい、フィリップも後を追って、身を投げるのだが…

感想(ネタバレあります)

 ジョージ・オーウェルの小説「1984年」、ガン=カタで有名な映画「リベリオン」など、いわゆる「ディストピアもの」というジャンルの映画、文学は様々あるが、本作がそれらのディストピアもの、と違っているのは「自分たちを支配しているものが明確に描かれない点」にある。
 前述の「1984年」では、ビッグブラザー率いる「党」が、リベリオンでは感情や芸術を否定する「テトラグラマトン党」が、主人公たちの倒すべき敵、として明確に存在している。だけれども、本作に登場する組織は、学校、会社、家庭ぐらいであり、「自分たちを支配している何者か」の存在は見えない。というより、ほとんどの人物は支配されていることすら気づいていない。給仕が殺されて時も人々は悲鳴をあげたり、それを止めようとはしない、その後、その給仕が人肉加工工場へ送られることへも、また、自分たちが人肉食品を食べていることも。そんな「自分たちを支配している何者か」を見つける過程が、本作の物語、と言っていいだろう。
 通常の「ディストピアもの」では異常な社会に気づいた(気づいている)主人公たちがそれを打倒するために戦う姿が描かれる。本作はそうではない。謎のビープ音も、人肉食も、試験や暴力で人が死ぬことも、極めて「普通」な社会なのだ。その前提を理解しないと、作品を理解するのは難しいかも(私は最初見た時、そうだった)。つまり、二度見推奨。
 「誰に支配されているかもわからないけれど、あるゲームへの参加を強制され、敗者は勝者の食いものにされる世界」これはまさしく、自分たちの生活している資本主義社会そのものではないか?
 本作はそんなこの世界の不条理に「気づく」までの映画ではないだろうか。

このような悲惨な世界で、愛の物語を伝える以外に希望を示す手段はありません。主人公がこの世界を生き抜く方法は、妻を愛し続けることができるという能力なのです。夫婦は一緒にいようと決断する。これは小さな希望ではなく、とても大きな希望です。この映画の最も重要な部分で、私たちは彼らが触れ合う姿を目撃しなければいけないのです。
(監督のインタビューより)

 普通の「ディストピアもの」のように、武力で世界を変えることはできないだろう、では、作中の世界、または、それとつながる現実の世界を変えるには、何をすれば良いのだろうか? 監督は「愛の物語を伝えること」と言っているが、どうだろうか?

監督インタビュー

eiga.com

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【ネタバレ・感想】映画「プラトーン」

どんな映画?

 延々と続くゲリラ戦、高温多湿な環境で消耗する部隊、部隊内部での争いや、民間人殺害、レイプなど、ベトナム戦争に参加した兵士は何を見たのか?
 実際に従軍したオリバー・ストーン監督が、脚本、監督し、ベトナム戦争の世界を描く。


プラトーン Platoon 1986

あらすじ

 ゲリラ戦が続くベトナムを「この目で見るため」に主人公クリス・テイラーは大学を中退、一兵卒としてベトナム戦争に参加する。しかし、ベトナムの湿度と温度、そして、いつ来るかもわからずまた、終わりも見えないベトコンの攻撃にさらされて部隊は消耗していた。部隊の内部では黒人兵と白人兵の間に微妙な空気が流れ、バーンズ曹長、エリアス軍曹など、歴戦の下士官兵の間では戦闘に出す兵士の割り振りなどでいさかいが起こり、さらに新任の中尉は「ベトナムで生きていけそうにない奴」と下士官の間でバカにされ、実質的に部隊を仕切るのはバーンズ曹長であった。
 そして、その部隊間の軋轢はベトコンに協力したのではないか、と疑われた村の扱いをめぐる争いで噴出することになる。
 ベトコンに無理やり協力させられ、武器や食料を隠すように言われた、というベトナム人村長に対して、ベトコンにより同じ部隊の兵士が首を切られ、殺されたことへの復讐を行おうとするバーンズは村人の銃殺を実行しようとし、それに反対するエリアスと対立し、最終的に殴り合いへと発展する。二人は中尉によって仲裁され、村は焼き払われることになるが、バーンズとエリアスの間の関係はさらに悪化する。
 ベトコンとの戦闘の最中に、相手の側面を攻撃するため移動したクリスとエリアス達、エリアスはさらに先へと進み、ベトコンへ攻撃を行う。その時、部隊は退却を決定、クリス達に退却を伝えたバーンズは、エリアスを探しにベトナムのジャングルの中に消える。ジャングルの中で出会う、バーンズとエリアス、バーンズはライフル構え、エリアスを射殺、クリスたちと合流したバーンズは「エリアスはベトコンに殺された」と伝える。
 そして、クリスたちはヘリコプターに乗って退却するが、地上で多数のベトコンに追われて逃げるエリアスを発見する。エリアスは両腕を高く上げ、天を仰ぎながら戦死、一方、クリスはバーンズがエリアスを撃ったのではないか、と疑いを持つ。クリスがバーンズへの疑いを深くする中、ベトコンとの大規模な夜間戦闘が起きる。

感想

 部隊内での仲間割れ、信頼されない新米将校、虐殺やレイプまで、プラトーンには、いわゆる「かっこいい米軍」は登場しない。しかも、登場人物のキャラクターは、オリバー・ストーン監督が実際に所属していた2つの中隊に実際にいた人物から創作したいるのだという。
 ベトナム戦争では、(映画「フルメタル・ジャケット」でも描かれていたように)訓練を終えた兵士は、バラバラに部隊へと配属される。帰国までの日数を指折りかぞえる古参兵は、戦闘に出て負傷や戦死したくない、かといって、新兵は戦闘慣れしておらず使えない、部隊内で出撃する兵士の割り当てでいさかいが起こり、さらにベトナム戦争時に大量に育成された将校は頼りにならず、実質的に部隊を仕切るのは歴戦のバーンズ曹長
 見えない敵に、雨、虫や蛇、高温多湿、そのようなベトナム戦争下での兵士たちの生活、戦闘がとてもリアルに描写されている。
 この映画の登場人物には「善人」と「悪役」の区別、というものはない。誰もが時には「善人」であり、時には「悪役」となりうる。
 黒人兵が喉を切られた後に、クリスたちの部隊は、ベトナムの村に入る場面。クリスはベトナム人青年に向けて「なぜ笑う? ほら、踊ってみろよ」などと叫びながら銃を乱射する。しかし、そんなクリスは一方で、レイプされそうになっていた女性を助け、「お前たちはケダモノだ」と、他の兵士を罵倒する。ついさっきまで、銃を乱射していた人物が、一方では、レイプされそうになっていた女性を助ける。村人の銃殺を提案するなど、冷酷さが目立つバーンズも、味方の死に憤り、また、味方からは「不死身だ」と頼りにされる「良き兵士」である。
 この村のシーンの後、バーンズはエリアスを銃で撃つ。ヘリで帰還する途中、ベトコンに追われて、必死に逃げるエリアスの走りかた、これが印象に残った。バーンズに撃たれ、さらに多数のベトコンに追われ、で、有名なジャケットの両手を上げて死ぬシーン、につながっていく。
 この後、基地に帰ったクリスは「バーンズがエリアスを撃ったのでは」と疑う。そこに、酒を浴びるように飲むバーンズ。どれだけ確執があったとしても、エリアスを殺したことは、ただ忘れてしまえるようなことではなかったのか。
 そして、最後の攻撃の後、クリスは銃を手に取り、戦闘で負傷したバーンズを射殺する。戦場で二回負傷したため、帰国することになるクリス。
「そして、すべてを葬り去る敵の大夜襲が小隊に、そしてクリスに迫る…。」これはwikipediaや他のストーリー紹介でも出てくる文句だけれど、クリスが戦場で見たこと、そして、行ったことは「すべてを葬り去る敵の大夜襲」で葬り去られることはなかった。この後の彼は、数日後には到着するであろうアメリカで、どのように生きるのか?
 全体的にまとまらず、脈絡もない感想だけれども、正義も悪もなく、「反戦」を全面に押し出すこともなく、ただベトナム戦争で起きたこと、を描いた映画の感想としては適切なのかな?

 

 

【感想・レビュー】エリジウム

どんな映画?

 「第九地区」で有名になった、ニール・ブロムカンプ監督のSF映画。
人類がスペースコロニーエリジウム」に住む富裕層と、荒廃した地球に住む人に分かれた未来を舞台にした映画。


映画『エリジウム』第1弾予告編

映画の内容

 人口増加により環境が悪化した地球。ごく一部の富裕層は、豊かな暮らしを続けるために、エリジウム(神々に愛された人々が死後に住む楽園の意)と名付けられたスペースコロニーに移住し、高度な医療技術の恩恵を受け、不老不死に近い生活をし、地球に取り残された人々は荒廃した地球での生活を強いられていた。
 マット・デイモン演じる主人公マックスは、元は自動車泥棒などで有名だったが、現在はアーマーダイン社の工場で働いている、そんな彼は工場で致死量の放射線を浴びたことにより、余命5日を宣言、工場を解雇されてしまう。彼は知り合いで、不法移民の手助けをしているスパイダーを訪ね、エリジウムへ行くための切符を手に入れる代わりに「危険な仕事」を行うことを承諾する。
 その「仕事」とは富裕層の脳内データをマックスの脳内に転送し入手すること。マックスはアーマーダイン社の社長を襲いデータを入手することに決める。
 一方、エリジウムでは、不法移民に対し、断固とした政策をとるべきとするデラコート長官とエリジウム総裁が対立、長官はエリジウムを設計したアーマーダイン社の社長にエリジウムの再起動プログラムを作らせ、新総裁への就任を目論む。
 余命5日となったマックスは、神経系に接続された強化外骨格を装着、計画通りにアーマーダインの社長を襲撃、脳内データを転送するマックスだが、その時にエリジウムの再起動プログラムも一緒にマックスの脳内に送られてしまう。襲撃の結果、アーマーダインの社長は死亡したため、再起動プログラムはマックスの脳内にあるもののみとなってしまう。
 マックスは、再起動プログラムの入手を目論むデラコート長官に追われることになる。

感想

 本作のニール・ブロムカンプ監督は、前作の「第九地区」で、南アフリカを舞台に、人種差別政策やアパルトヘイトをテーマにした作品を作った人で、リアルなメカデザインや画面の細かいこだわりなど私の好きな要素をしっかり抑えてくれる人。
 そして、「エリジウム」のテーマは格差社会エリジウムのように、宇宙ステーションに滞在する、とまではいかなくても、「富によって住む場所や受けられるサービスが違う」というのは実際にある話。アメリカでは、サンディ・スプリングスという富裕層が多く住む地区が住民投票によりフルトン郡から独立、警察や渋滞緩和、道路、公園施設整備の恩恵を受ける一方、独立されたフルトン郡では税収の減少により行政サービスの縮小を余儀なくされる、という問題が起きているそうだ。「より良い行政サービス」そして、「なぜ自分たちの税金を貧困地区のために使わなければならないのか」という意見がサンディ・スプリングスの独立につながったそうだ。
 終盤のシーンでわかるようにエリジウムとそこに暮らす富裕層には地球の人々を治療し格差を縮める力がある、きっと、現在もそうなのだろう、「できない」のではなく「やりたくない」のだ。
 工場で働く主人公マックスはブルーカラー(文字通り青いツナギ着てる)、その上にはヘルメットにスーツの現場責任者がいるけれど、彼も「菌が移るから口を塞げ」と社長に言われて反論できない、さらにその上にはアーマーダインの社長(業績悪化のため仕方なく地球暮らし)その上には株主や政府関係者(エリジウム居住)がいて、「実際に手を汚して働く人は貧しく、株主や権力者ほど豊か」という構図は、現代の社会を見ても似たようなものがある。地球では刺青いっぱいのラテン系、アフリカ系をいっぱい出して、一方のエリジウム住民は白人率を高めにしてるのもわざとやっているにちがいない。
 映画のテーマは前作の第九地区よりもわかりやすく、配役もいい奴と悪い奴が割とはっきりとしていて、第九地区のような「えっ、この後どうなるの」的展開には欠ける。
 ただし、ありそうなメカデザインや、痛そうな手術場面など、この監督のこだわりどころは健在、第九地区で見事「感情移入できない」「クズ」とレビューされた主人公ヴィカス・ファン・デ・メルヴェを演じたシャールト・コプリーはエリジウムの現地工作員役で出演。第九地区では「自己中ダメ人間役」を演じた彼は今回も「重犯罪者の工作員役」を怪演。子供にこもり歌を歌ったり、相手を挑発したりと単に暴力的な悪役よりも「なんかやばいやつ」感満載の演技。
 前作の第九地区が傑作すぎる、と言っていい傑作だったこと、ジャンルや監督が同じことからつい、「前作と比較して〜」と言われがちな本作だけれども、十分見ごたえありの作品です。

【ネタバレあり・感想】帰ってきたヒトラー

どんな映画

 第二次世界大戦で死んだはずのあの男、アドルフ・ヒトラーが現代によみがえる。
現代によみがえったヒトラーは、新聞やネット(wikipediaも)を使い現代の知識を得ていく。そんなヒトラーは、超絶リアルなヒトラーのモノマネ芸人である、と誤解され、彼の演説は現代ドイツを鋭く批判した風刺コメディーだと誤解され、テレビやyoutubeでコメディアンとして大ヒットする…
 2012年にドイツで発売され、ベストセラーとなった小説「帰ってきたヒトラー」の映画化作品。


映画『帰ってきたヒトラー』予告編

映画の内容(ネタバレあり)

 ヒトラーが目覚めると、そこは敵戦闘機も飛んでおらず、砲声も聞こえない公園だった。状況がつかめないヒトラーは、近くでサッカーをやっていた少年に声をかけるが、当然のことながら、「変なおっさん」扱い。すっかり変わってしまった街を歩くと、大勢の人から写真を撮られるばかり、どうにかたどり着いたキオスクでここが2014年だ、ということに気づく。キオスクで新聞を読み、ドイツが敗戦したことや現代の政治状況について、(一応の)知識を得る。
 その一方で、テレビ局では、人事異動があり、新局長にベリーニという女性が就任し、ゼンゼンブリンクは副局長に据え置かれる、そして、経費削減を理由にゼンゼンブリンクから解雇を言い渡されたフリー記者、ザヴァツキは、サッカーをする子供の撮影中、背景に写り込んでいた、ヒトラーを、ヒトラーそっくりさん、と勘違いし、自らの再起をかけてテレビ出演させようとする。
 ヒトラーとザヴァツキは、ドイツを移動しながら、各地で撮影を行う。バーや街角で民衆と対話するヒトラー
 そんな彼は、youtubeで100万再生を獲得し、ついにテレビデビューを果たす。秘書役として彼にインターネットの使い方などを教えた、ゴス系女子社員クレマイヤーとともに、現在までの歴史や知識を取り入れた(主にwikipediaから)ヒトラー
 コメディ番組にそっくり芸人として出演し、現代ドイツの諸問題やマスコミ、政治について、毒舌演説を行う彼は、たちまち「毒舌芸人」、「ヒトラーそっくりの政治風刺コメディアン」として、大ヒット、youtubeでも「過激ながら真実をズバリと言い切っている」と大人気になる。
 しかし、人気絶頂の彼がテレビ出演した際、過去(復活直後)の撮影中に犬を射殺した映像をリークされ、テレビ出演取り消し、を言い渡され、局長であった、ベリーニは解雇され、ゼンゼンブリンクが新局長に就任する。
 時間ができたヒトラーは、自らが現代によみがえってから今まで起きたことを小説「帰ってきたヒトラー」として発売、ベストセラーとなり、映画化も決定する。
 一方、人気芸人ヒトラーを失った後、テレビ局は収益が悪化、「そろそろほとぼりも冷めた」として、ゼンゼンブリンクは、「帰ってきたヒトラー」の映画制作への協力を示す。
 そして、クレマイヤーと恋仲になっていたザヴァツキがヒトラーとともにクレマイヤー家を訪れた時、認知症であるはずのクレマイヤーの祖母が、ヒトラーに対して、恐怖を抱き、拒絶する。クレマイヤーの祖母は、ユダヤ人であり、その家族皆、強制収容所で殺されてしまったのだ。クレマイヤーがユダヤ人であることを知った時のヒトラーの反応、そして、サッカー少年のビデオの背景にヒトラー出現の瞬間が写り込んでいたことから、ザヴァツキは、ヒトラーがモノマネ芸人やそっくりさんではなく、現代によみがえった本物、であることを確信し、ネオナチに襲われ、病院で療養中の彼を捕まえようとするが、精神に異常をきたした、として、病室に閉じ込められてしまう。
 一方、映画、「帰ってきたヒトラー」は撮影が終了、街を行くヒトラーに敬礼し、写真を撮る人々、現代によみがえったヒトラーはこう呟く「好機到来」と。

感想

 まず、ストーリーだけれども、細部が小説版とは異なっているため、小説を読んだ人にも楽しめる。というか、原作はヒトラーが書いたこと、になっているし、その映画化作品(今見ているこの映画)自体がヒトラー主演、という形式をとっている。
 街行くヒトラーがバーや街角でドイツ人と意見を交わすシーン、「過去のことがあるから、少しでも変な意見を言うと、すぐ外国人差別だと言われる」、「移民、特に原理主義者には帰ってもらいたい」など、全ドイツ人がそんな意見の持ち主だとは思わないけど、難民受け入れに反対する人々が少なからずいるようだ。そして、ヒトラーが街中を歩いたり、オープンカーに乗っていたりするシーン、これらの一部はゲリラ撮影されたもののようで、演技ではない、ドイツ人の反応、を見ることができる。「死ね」サインをする人もいるけれど、一緒に写真を撮影したり、ナチス式敬礼をする人がいたり、ヒトラー役の俳優もヒトラーに対する嫌悪感が薄れていることに驚いてたようだ。本編や予告編各所で、背景の人物にモザイクがかかっているシーンがあるが、それらは映画の撮影と知らされずに、ゲリラ撮影したシーンなのだろう。
 そして、彼の演説は毒舌ながら問題の本質をついている、としてネット上などで評価されるようになる。(トランプ大統領かな…)
 そして、映画内で「帰ってきたヒトラー」の撮影中シーンにヒトラーが発する言葉、「自分は民衆を扇動したのではない」、「政策をはっきりと明言し、そして、民衆に選ばれたのだ」、「他にどんな方法がある? 民主主義をやめるか?」
 ヒトラーは最悪の独裁者、と言われるが、そんな彼は、かつてドイツ国民から圧倒的な支持を受けて当選したのだ。
 終盤になるにつれて、スクリーンに現れる映像が、「現実に帰ってきたヒトラーが話している言葉」なのか、「『帰ってきたヒトラー』の劇中劇として撮影されている『帰ってきたヒトラー』のセリフ」なのか、わかりづらくなるシーンがある。
 そして、最終シーン、難民受け入れをめぐり、反対デモを繰り広げるドイツ人や、ギリシャ人、ドイツで起きた難民施設への放火映像など、映画の撮影ではなく、本当に現実に起きた出来事がエンドロールとともに流れていく。
 民衆に既存政治への不満が溜まり、難民やヘイトクライムが発生し、多少極端でもズバリと本質を言い切る強い政治家に人気が集まる現代。
 そう、タイムスリップしたヒトラーが活躍できるなら、まさにこの時代なのだ。
 民主主義によって、独裁者を選ぶことができる、民主主義的に、民主主義を拒絶することができる、という事実を、私たちはどう考えればいいのだろう。
 ドイツでは「戦う民主主義」を採用して、民主主義を否定する政党は極右、極左にかかわらず、解散させた過去があるそうだが…
 ついでに書くと、このヒトラー役の俳優さん、声はよく似ているし、特に帽子をかぶると本物と瓜二つ、と言っていいほどのクオリティ。過去のヒトラー映画のパロディーシーンやコメディータッチな描写があるなど、序盤はよく笑わせてくれるが、後半はまさに「笑うと危険」
 あと、クレマイヤー可愛い。
 おすすめですぞ。

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バンクシー・ダズ・ニューヨーク

どんな映画?

バンクシー、と呼ばれる、世界的に有名な、正体不明のグラフィティ(落書き)アーティストが、ニューヨークを訪れ、10月1日から、一ヶ月間、毎日、ニューヨークのどこかに自らの作品を残すことを宣言する。

バンクシーは毎日、ウェブサイトに作品の写真や動画、音声ガイドを掲載するが、その作品の場所は記されていない。バンクシーの追っかけファンや、作品を高額で売ることを目指す美術商、など、バンクシー作品とそれを巡る人々の動きに焦点を当てたドキュメンタリー映画。


映画『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』予告編

映画の内容

世界的に有名でありながら、正体不明のアーティストとして活動する、バンクシー、そんな彼が、「屋内より外がいい」と題して、10月から1か月間、毎日、ニューヨークのどこかに作品を制作することを宣言する。作品はウェブサイト上に写真や動画でアップロードされるが、その場所は明らかにされていない。バンクシー作品を生で見ようとする人はSNSや動画投稿サイトを駆使して、場所を特定しようとする。バンクシー作品を追う人々は、バンクシーの追っかけだけではない。ニューヨークの富裕層が住むある地区に巨大なギャラリーを持つ美術商は、バンクシー作品が書かれた壁やドア、シャッターなどを切り取り、数十万ドルという値段で販売することを目論んでいる。例えば、ファンが見ている目の前で、カッターを使って作品を切り取るようなこともする。この行為に対して、「窃盗ではないか」、「バンクシー作品を使って、儲けることを目標としている」、「パブリックアートを理解していない」と批判的意見を述べる人も多い。

そんな人に対して、バンクシーはとっておきの皮肉を用意する。人を雇い、自分のスプレー作品を一枚60ドルで売ったのだ。皆がバンクシー作品を追いかける中、露天で販売されているバンクシー作品に注目する人はおらず、1日でたった420ドルの売り上げにしかならなかった。(二枚は半額に値切られた。)そして、その様子がバンクシーのサイトにアップされると、60ドルの絵は、1枚、25万ドルの値がつくようになった。映画に登場した人は言う「美術商で、バンクシー作品を買い損ねたことを残念がる人は多い。しかし、そんな人はバンクシー作品が欲しいのではない。バンクシーの作品を60ドルで買う機会を逃したことを残念がっているのだ。」

政治的、社会的に議論を呼び起こす作品も多いバンクシーは、この展示会を通して、ニューヨークの持つ問題を明らかにする。貧しい人の多い地区に作られた作品はたまたま、その近くに住んでいた人が、作品にダンボールをかぶせ、写真を撮りたければ5ドル払うように要求する。彼は、「この作品がなければお前ら(美術愛好家など)はこんなところにはこないだろ?」という。

ニューヨークやアメリカの持つ問題を明らかにしながら、バンクシーの作品が、一つ一つ作られていく…

感想

バンクシー作品を通して、ニューヨークの持つ問題が明らかになっていく過程がとても面白い。

貧しい人の多い地区に作品を作り、その撮影に5ドル要求する人(バンクシーとは無関係)が現れた場面、取り壊し予定の工場の敷地内に作られた作品を従業員が持ち去り、自宅に保管、高級住宅街に巨大ギャラリーを構える美術商に35万ドルで委託販売するあたりは、アメリカの経済格差を浮き彫りにする。

その他、資本主義の中心地であるニューヨークが、強大な資本に飲み込まれていく様子も描かれる。ニューヨークの土地価格が上がり続け、再開発によってつくられる店や、マンションはことごとく富裕層むけになり、地元の人間には何の影響も与えない、そんなアメリカの持つ格差や社会問題が、バンクシー、というアーティストの活動の結果、明らかになる、そんな構成の映画だった。